3741498 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

川柳と日本語

 川柳と日本語

 先月末、某新人賞の応募原稿の郵送のため、車に乗って少し距離のある郵便局に向かった。道すがら、お昼前のNHKラジオ放送を聞いていたら、(高名な)川柳作家が川柳についての講演をしていた。


花


 聞くとは無しに聞いていたら、これが面白い。

 川柳を作る基本は、「聞き手に意味が伝わるか」と「リズム(五・七・五)」の二つに尽きるというのだ。

 冷静に考えてみれば、わずか17文字で意味を伝えなければならないのである。読み手の独りよがりでは、川柳にならない。旨いことを云う。

 金田一春彦氏によると、川柳ほど日本語のためにあるようなものはないという。氏によれば、「日本語は主語がいらないのである。このような素晴らしい言語が他国にあるだろうか。その極致が川柳なのである。主語も目的語も補語がなくても意味が伝わるのが、川柳なのである。情景が浮かぶ」のである(という趣旨であった)。

 川柳作家は続ける。文芸春秋の臨時増刊に「美しい日本語」(気持ちの悪くなる言葉だが)というのがある(2002年発売)。

 その中で清水義範氏の日本語作法として、「意味が伝わるか」と「利口そうか」の二つを挙げているそうだ。利口そうな文章というのは、氏らしいが、それについては、山本一力氏が、別の観点から「気取ってはいけない」と力説しているという。

 おいらは、車の中で「おやっ」と思ってしまった。文章作法の極意は、きどることである。これは丸谷才一氏に教えられたことである。

 そう思いながら聞いていたら、「形容詞を使ってはいけません。日本語の力に訴えて、云いたい内容を表現しなさい」と続けたので、安心した。文章そのものは、そうでなければならない。しかし、気取るというスタンスは必要であると思うのである。

 川柳も捨てたものではない。




© Rakuten Group, Inc.